夏目漱石『こころ』は誰に向けて書かれたのか

企画

今回も3000文字チャレンジという企画への参加記事となります。
というわけで、お題と企画のルールについてはこちらから↓

今回のテーマは『せんせい』
この文字を見て、あなたはどんな漢字変換を思い浮かべますか?

というわけで、早速スタートです!

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「先生」

お題はひらがなですが真っ先に浮かんだ変換がこちらだったので、今回はこの単語で話を進めていきたいと思うのですが、

「先生」

と聞いて、あなたはどんな人の姿を思い浮かべるでしょうか。

多くの人は学校の先生を思い浮かべるんですかね。その他、お医者さんであったり政治家さんであったり作家さんであったり、教職ではない人に対しての呼称としても、先生という呼び方は使われたりもします。

それどころか、そういった今挙げたばかりの職業についていないような人に対しても、先生、と呼ぶこと、あるんじゃないでしょうか。

たとえば、自分が師と仰ぐような、とても尊敬できる人物とか。

で、ここまで書いていて私はとある作品のことを思い出しました。

そう、この記事のタイトルにもある通り、その作品とは夏目漱石氏が書いた『こころ』です。

高校の教科書にも一部抜粋して掲載されていたこともあったので(今はどうなんだろう?)、そちらで目にしたことのある人も多いのではないでしょうか。

今回はそんな夏目漱石氏の『こころ』について、私自身の思いの丈などを書いてみようと思います。

夏目漱石『こころ』の概要

と、このまますぐあれやこれやと書き連ねてもいいのですが、念のため、この作品について少しばかり紹介しておこうかと思います。

『こころ』は当時の書き方で言うと『こゝろ』となるのですが、とにかくこの作品は1984年〜2007年の千円札紙幣にも登場した、夏目漱石氏が書いた作品です。

構成としては下記の三部となっています。
上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書

上・中では語り手として登場する「私」が「先生」と呼び慕っている人と鎌倉で出会って交流していき、しかし実家にいる父の病状の悪化によって帰省するまで。

そして、下では「私」の実家に届いた先生の遺書となる長い手紙の内容を記しています。「先生」の生い立ち、それから友人「K」と「お嬢さん(のちの奥さん)」との間に起きた出来事。

教科書でも抜粋されていたのはこの下の章の部分ですね。

ちなみに、元々はさまざまな短編を書いて「心」という題で統一する予定だった本作は第一話とするはずだった「先生の遺書」が思いがけず長くなりそうだったため、その一編だけを3部構成にして出版することにし、題名は当初に予定していた通り「心」で統一したのだ、と単行本の序文に記されているようです。

ということで、ある意味遺書パートが本編であり、「私」による語りである上・中は壮大な序章だった、という見方もできるかもしれません。

なお、『こころ』は夏目漱石氏の『彼岸過迄』『行人』とあわせて後期三部作とされていますが、他の2作品と同様、人間の深い部分にあるエゴイズムであったり、倫理観との葛藤であったりを描いた作品ともいわれています。

また、この作品の背景として、明治天皇の崩御とそれによる乃木大将の殉死という時代の変容と実際の出来事を受け、「明治の精神」への批判を予測した夏目漱石氏は、大正という新しい時代を生きるにあたり、「先生」を「明治の精神」に殉死させた、という背景も持ち合わせています。

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『こころ』は誰に向けて書かれたのか

ちなみに今からしようとしている話ですが、出典元に関しては残念ながら覚えていないものの、どこかの出版社の巻末についていた解説の中で上がっていた話題となります。

なお、ここでいう「誰に向けて書かれたのか」というのは、夏目漱石氏が誰かに向けて書いた、それが誰であるか、ということを言いたいわけではありません。

そりゃそうですよね、っていう感じですが(笑)

ここでいう「誰に向けて書かれたのか」というのは、上・中編の語り手である「私」が「先生」との出会いや交流、それから「先生」の遺書について、”誰に向けて書いて(語って)いるのか”という話です。

この作品を、作者(この場合は夏目漱石氏)と読者で対で考えた時、ただ「先生」の遺志を伝えるだけでなく「私」の背景をも語るということについては、物語に深みを持たせるために必要だったと、そんな作者の意図があったと、そんなふうに考えることができます。

たとえばですがその視点を、作者から見れば読者、ではなく、上・中編の語り手である「私」に置き換えてみた時にはどうでしょうか。

「先生」のことを誰かに話したい、と感じた時に、「先生」との交流について話すことはあるでしょう。そして、その人が亡くなってしまったということを。

ただ、とても親しい友人や家族であれば、自分自身のことはあまり話さなくても良さそうに思います。

ということは、「先生」より前に出会う前までの交友関係の中には、その相手はいない、と考えるのが自然なのかもしれません。

ただ、「先生」の遺書の内容について詳らかに語っている、ということは、「先生」との間にあったこと、そしてそんな「先生」にとってはずっと心残りであり、その死の原因ともなった過去の出来事についても話す必要を「私」が感じたくらいに、「私」にとってその相手は重要な人物だった、と想像することもできます。

尊敬する師の、後ろ暗い過去をそう簡単に人に話してしまうものか?それは考えにくいでしょう。

だからこそ、たとえ自分語りの部分を飛ばして、「先生」の遺書を公開する、という部分のみにフォーカスしたのだとして、その重要人物が家族だったとも考えにくいのではないでしょうか。

「私」は容体の悪化した父の元に帰るために「先生」のもとを去っていたものの、遺書が届いたことでもう一度「先生」の元に向かっていますが、家族であれば、恩師が亡くなった、という事実だけを伝えれば済む話だと考えるからです。わざわざ遺書の内容を伝える必要まではないからです。

では、その「重要人物」とは誰なのか。

自分自身についての話をある程度しなければならないくらいには関係性が遠く、なおかつ、「先生」の遺書の詳細までも語るに値する重要人物は、私が読んだ解説の中では、「奥さん」なのではないか、と推察されていました。

なお、「先生」の遺書ですが、最後の方でこの遺書の中に書かれている内容を「奥さん」には公表しないでほしい、といった文言が書かれています。

「奥さん」との婚姻をめぐり、「K」と「先生」の間にあった後ろ暗い部分を、何より彼女に知られたくない。

「先生」にとっては自身の「奥さん(当時はお嬢さん)」への恋心のために、「K」をけしてフェアとはいえないやり方で出し抜いており、

そのことが直接的であれ間接的であれ「K」の自死に影響したことは否定できません。

そして、「先生」は、自身の両親から引き継ぐべきだった財産を使い込まれたことであれほどまでに嫌っていた叔父と自分がさして変わらないことからなおのこと罪悪感が強かったと考えられます。

ただ、「私」とは約束だから、たとえ軽蔑されようとも自身の過去については話すけれど、「奥さん」の中でだけは、綺麗なままの自分を残しておきたい。

「先生」の遺書にはそんな願いが込められていました。

そうすると、「先生」の最後の遺志を反故にしてまで遺書の内容を「私」は彼女に伝えてしまうのか、という疑問が残りますよね。

それは、作中登場する「先生」から「私」へ向けて贈られる、以下のセリフにヒントを得られるような気がします。

「しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解かっていますか」
「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」

恋をすることで平時の「K」との友情を忘れ、そんな自分になってしまったことを通して「恋は罪悪」と「私」に伝えたのでしょう。

この時のやり取りでは、かなり「私」は「先生」に対して、罪悪とは何なのかと食い下がっています。「K」との過去について先生は教えてくれず、ただ、恋は罪悪なのだと彼に告げたからです。

しかし、もしも「私」の「奥さん」に対する恋によって生まれたのだとしたら、どうでしょうか。

もちろん「先生」が亡くなってからすぐのことではなく、もしかしたら死後も「奥さん」とは折に触れ交流を続けていたのだとしたら、そんな感情が芽生える可能性もゼロとはいえないでしょう。

「先生」との交流時には、まだ恋も知らないと言われていた「私」が、恋を知り、そして恋が罪悪であると、先生の最期の願いを踏みにじってまで、自覚する日が来てしまったら……。

なかなか斬新な視点だな、と当時解説を読みながら思ったものですが、その文章の中には、小説の中から読み取れる範囲での「奥さん」と「私」の年齢差なども推察されていて、

それこそ多少「奥さん」の方が年上であるにしろ、そこまで法外に年齢が離れているわけではない旨も書き添えられていました。

もちろんここに書いてあるその解説と仮説の話についても作者が明言した内容ではなく、あくまでも考察のひとつではあります。真実は作者のみぞ知る、というやつです。

ただ、もしも人間の深いところに根差すエゴイズムを描くことを志していた作者が、「先生」の件を通して「私」のエゴについても背後に潜ませていたのだと考えたら、

『こころ』もまた違った読み方ができるんじゃないかな、と、この説は結構好きだったりします。

『こころ』は誰に向けて書かれたのか まとめ

というわけで、ここまで『こころ』という作品と、私の中で最も気に入っているアフターストーリーに関する仮説について書いてきました。

最後に、「K」と「先生」のそれぞれの死にまつわる考え・感想については、霧島もとみさん(@motomikirishima)の書評がとてもわかりやすいと感じたので、そっとリンクをシェアしてしめたいと思います。

この記事を書いた人:藤代あかり(@akari_fujishiro)