引き寄せの法則 自己肯定感が低い人にはハードルが高いんじゃないか?という話

スピリチュアル・メンタル寄りの話

おそらくですがこの記事にたどり着いたということは、これを読んでくださっているあなたは多かれ少なかれ『引き寄せの法則』に興味がある可能性が高いのではないかと思います。

なので、「引き寄せの法則とは何か?」という状態の人は少ないんじゃないか、とも思いますが、念のため書いておきますと、

「引き寄せの法則」というのは、「思っているコト・モノを引き寄せるという法則」のこと。

もっとざっくりいえば、
いいことを考える→いいことを引き寄せる
悪いことを考える→悪いことを引き寄せる

という感じです。

ちなみに「法則」とはついていますが、特に科学的に証明されているわけではないので悪しからず。

さて、そんな「引き寄せの法則」ですが、アリかナシかの2択で選んで欲しいと言われたら「アリ」という選択を下します。

他方、タイトルにもあるように、自己肯定感が低くどちらかというとマイナス思考寄りの人にとっては、「引き寄せの法則」って結構ハードルが高いんじゃないかな、と思う瞬間がこれまで何度か訪れました。

今回の記事では、それでも成功させるためには!みたいなノウハウはご提供できないかと思いますが、上手な付き合い方の一例として、これを読んでくれている人の参考になる部分があればと思って書こうと思います。

イメージできるものは叶えられるかもしれないが、イメージできないものは叶えられない

私が「引き寄せの法則」をアリ、とする理由。

それは、「具体的にイメージできることは叶いやすい」ということに関して、体験談を持っているからです。

というのも、遡れば大学入試の時、私はずっと第一志望の大学・学部の模試の判定結果がEとかFとかだったものの(Aが1番よく、EFは悪い結果)

結果としてはその第1志望に現役合格しているからです。

ちなみに、その当時全く勉強しなかったとは言いませんが、模試の判定に対して何くそー!と猛勉強したかというとそうではなく。

大学のオープンキャンパスでもらった案内のパンフレットを繰り返しみて、入学した後の大学生活をめちゃめちゃ具体的にイメージトレーニングしていた、みたいなふざけた受験生だったんですが、

今振り返ってみても、当時どうしてあれだけ根拠らしい根拠を持たないまま、受かることに関してだけは自信満々だったのか、自分でもよくわかりません(笑)

また、上記のようなプラスの面での体験とは正反対に「悪いイメージ」が具現化したのは、就職・転職の時でした。

私が新卒で就職活動をしていた時はリーマンショックの翌年でした。

とにかく早く正社員雇用を決めたかった、というのもあり、最初に内定をくれた会社への就職を決めたのですが、最終面接の時、確かに会社に違和感を感じていたことは否定できません。

結局社風に合わなさを感じたのもそうですが労働時間がデフォルトで長いこともあって体調を崩して退職。

そして次の転職の時も、違和感を抱えたまま、ただブランクを開けたくないという理由で内定を受け入れた会社でも、結局社風と合わず体調を崩して退職、という結果に終わっています。

また、イメージの具現化、というのは結婚に関してもあったなぁと思っています。

というのも、以前『ハッピーエンドに憧れて』という記事でも書いたんですが、

25歳を超えたあたりから周囲の結婚ラッシュが始まり、この時期は転職前で相当疲弊していたこともあり、自分も早く結婚したいなぁと漠然と焦るという時期を迎えました。

後に自覚することにもなるんですが、この時期は結婚に対して、恥ずかしながら「自分を今の現状から連れ出してくれて、幸せにしてくれるもの」というような認識を抱いていて、

まぁ要するに、元は家族ではない誰かと家庭を築いて長く歩んでいく姿、というのを全くイメージできてなかったんですよね。

で、そんな当時に結婚できるわけもなく、むしろ自分で転職を機に環境を変えたら「結婚願望だと思っていたもの」も薄れていき。

近年になってやっと、この人とこれからもずっと一緒にいたいな、と思えるような人が現れてようやく結婚しようかというところまですすんだわけです。

さて、ここまで書いてきたことはすべて物凄く特異な体験というわけではありません。

ただ、そんな未来を迎えている自分というのがイメージできないと、やはり望んでいるような未来を手にしようとしても難しいのではないかと感じています。

そんな未来を迎えるための具体的なアクションも起こせなくなってくるからです。

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自己肯定感が低いと引き寄せの法則が難しくなるのではと感じる理由

自己肯定感が低いと感じる自分自身の背景にまつわる話

私自身の話に入る前に、まずは、”これは”と思った記事をシェアしようと思います。

ライターのヒラギノ游ゴさん(@1001second)という方が書かれた文章なのですが、

特に以下の内容に、ああわかるなぁ、と共感せざるを得ませんでした。

仮に親からの愛は実在していて、それが歪んだ形で表れていただけだったとして、それがどうしたというのか。親から受けた現実のあれこれをどう覆せるというのか。自分がそれを享受したことがないのもあって「無償の愛」や「無条件の愛」というものを信頼していない。ワンオペ育児に苦しむ母親たちの手記を読んでいても、親が子を愛せないケースは特に珍しくもなく存在するのがわかるし、それは責められることではない。それは子から親への場合も同様だ。愛さないことを許す。話はそこからじゃないのか。
引用元:「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

さて、仔細なエピソードは諸々の都合で省きますが、あえて分類的なものをつけるなら、母は「過干渉気味だった」というのが1番近いのかもしれません。

そしてそのこともあっておそらく心のどこかでずっと
「私の思想はどうも母に良しとされない部分を持ち合わせているので、尻尾を出したり気取られたりしてはならない」
という抑止が働いていたんじゃないかと感じています。

私は、長年付き合いのある親しい友人からも
「感情の機微が表に出にくい」
と言われることが少なからずあったのですが、それは上記の思想が絡んでいた可能性がとても高いとも思っています。

まぁそれも今は、さまざまなタイミングが重なった結果私は1人で暮らしており、であるからこそ、多少なりとも精神的に安定してきているんですが、

実家時代は(仕事が遅くまでかかることも多かったですが)なるべく皆が寝静まったタイミングで帰宅したり、休日も予定がなくともなるべく1人時間を作るために用もないのに出歩くなど、ほぼ家に寄り付かなかったのが、

おかげさまで外出自粛要請下において、特に1日中家に引きこもりきりでも何ら苦痛を感じなくなったからです。

さて、ここまで読んだ人の中にはこう思う方もいらっしゃるでしょう。

「あなたの親御さんもきっと本当は」
「ちょっとしたボタンの抱え違いで」
「感情表現が不器用なだけ」
そんな枕を受けて、実に素朴に、無邪気に、善意で喉元にこの言葉を突き立ててくる。
「でも子供を愛していない親なんていないんだから、きっといつかわかりあえるはずだよ」

引用元:「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

経済的、身体的な面で生命を脅かされるような経験をしたわけではないし、

私自身、別に母が私を害そうとしていたわけではないと今でも信じており、

とはいえ、少なからず理解はしていても、分かっていても、心が追いつかないという部分にしんどさを感じてきた、罪悪感があるのは否定できない。

また、今のこの距離感こそが、私にとっては適切な距離感であり、

この距離感でいられてこそ「母は私を害そうとしたわけじゃない」という思いを抱けるのだとも感じています。

だから今でも年に一度くらいしか顔を出さないし、それも、あまり何かを言われないようなギリギリの日数を探りながら実行されています。

毎週必ず1回は何某かの方法で連絡を入れることが必須となっていますが。
(一人暮らしを始めた最初のひと月の間、自由を謳歌しすぎて一切連絡をしなかった結果怒られたため)

ただ、現状はこれでもまだいいんでしょうけれど、今結婚を考えている身として、

「仮に今後自分に子どもが生まれたとき、自分が嫌だと感じた面を自分の子どもに出さずにいられるだろうか。子供にだって意思・思想の自由とプライバシーはあるが、それを守れるのか」
「今は十分な距離が保てているけれど、結婚後や出産後などにその均衡が崩れることはないだろうか」

という懸念を抱いているのもまた事実。
ヒラギノ游ゴさんの言葉を借りるならこうだろう。

ただもちろん呪いは続いていく。鏡に映る自分の顔に面影がちらついてうんざりすることもある。ふとした自分の言葉遣いに共通点を見出してぞっとすることもある。どうしても連絡をとる必要が出てくることもままある。“これ”の専用薬はたぶんない。人それぞれのやり方でどうにか誤魔化し誤魔化し生活を続けてきている。根治はできないかもしれない。でも「うまくやれば誤魔化せる程度のものなんだ」という点は希望を持てるものなんじゃないだろうか。

引用元:「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

将来に対して抱く不安も、家を出たことで誤魔化し誤魔化しやっていくことを会得してきたわけで、実家にいた頃よりは無力感を感じなくなっているので、何とかなるだろうとは思っている。

また、少なからず今結婚を考えている相手については、純粋な瞳で「家族なんだから」という言葉を向けてこないタイプであるという点が救いでもある。

私の家族の場合は、母と私、以外の関係性についてはかなり希薄で各々がほぼ鎖国に等しい状態(母と私はこれでもコミュニケーションが取れていた方)なのですが、そういった「機能不全」的なことを話しても、驚いたり引いたりしないし、理解してくれるから。

ただ、自己肯定感の「回復」に関してはまだまだ道半ばかな、という印象は自分の中ではまだ強い、という所感です。

引き寄せの法則と心理的ハードル

さて、ここまで長々私自身の自己肯定感について書いてきました。

引き寄せの法則をあるもの、として信じるなら、自己肯定感が低いままでは難しいと感じていたからです。

というのも、ザックリというか大雑把に言ってしまうなら、引き寄せの法則というのは

「良きにしろ悪しきにしろ、自分がイメージしたものや未来を引き寄せる」

ことを指すのだと思いますが、もちろん、それなら「良いもの」を引き寄せたいですよね。

ですが、自己肯定感が低いとどうでしょうか。

自分が何かを欲しいと感じたり、こんな未来になっていたいと願うこと、それ自体を肯定できるでしょうか?

また、悪しきものをなるべく近づけないためには、できるだけそういうことを想像しない、ということも大事になってきますが、

ずっとプラスのイメージを抱き、それを願うことを自分に許し、叶うものと信じてアクションを取り続けるって結構難しいといいますか、疲れませんか?

私は、疲れるなーと感じました。ずっとそんな状態でいられたら引き寄せの法則に関する本を読んだり実行してみたりしないよ!!と理不尽に(?)キレていた時期もありました。

で、引き寄せの法則関連の本で出てくる体験談などで、ずっとプラスのイメージを抱き続け、実現のために頑張り続けることができる人の体験談を見るにつれ、そうであれない自分に失望したり怒りを覚えたり、果てには諦めたりするような状態になってくるんですね。

完全にノイローゼやんけ、と。ただ、アカルイミライというやつを手に入れたいと願っていただけなのにね。

いわゆる本末転倒というやつです。

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まずは自己肯定感の「回復」から

そもそも自己肯定感が低い場合、自分が何かを欲しいと感じたり、こんな未来になっていたいと願うこと、それ自体を肯定できるか否か以前の問題として、

「そもそも自分は何がしたい?何が欲しい?たとえば5年後にどんな生活をしていたい?」

という願いやヴィジョンそのものが見えてこない、といった問題に出会すことがあるかもしれません。

でも、漠然と、幸せになりたい、だけでは結局何も手に入らない。

そして、漠然とした「幸せ」が手に入らない状態が続くと、やっぱり自分には、ってどんどんマイナスな方向に安定していってしまう。

じゃあどうすればいいかって、自分の願望に耳を傾けることと、その願望を抱き続けることを自分で肯定できるようにならないと、結局は難しいんじゃないかと思うのです。

私自身はまずは、自分が「できなかった」ことではなく「できたこと」を1日1個でもいいから手帳に書き続ける習慣から始めました。

自分を否定し続けるのではなく、1個でも肯定できる部分を見つけるところからですね。

そして、月1回程度、何かしら欲しいと思ったものを自分で買ってみるということ。

その買ってみるものは、特別高いものである必要はありません。週1のコンビニスイーツとかでも全然OK。

決まったサイクルで、欲しい!という自分の願望に耳を傾けることと、それを叶えるという体験を得ることが重要なので。

たとえば洋服だったら、最初は
「こんな服買ったら似合わないって言われないかな」
といったことがついつい脳裏をよぎり、過度に心配になってきたりしそうなものですが、その声を無視する、ということも必要。

誰になんと言われようと、意思・思想は私の自由!
(もちろん常識と公序良俗の範囲内で)

と、自分が何かを願うことに対して、100%ではないにしろ少しでも思えるようになるためには、自分の意志や思想を蔑ろにしないためには、まずはそうした小さな積み重ねによる訓練が必要なんだろうな、というのが私が至った結論です。

それでめちゃめちゃアカルイミライがキタ!とはいえませんが、少なくともどん底は脱せられたかな、と。ということは、どん底から見たら上向きの場所にいるので、ある種のアカルイミライですね。

ところで、ここまで「引き寄せの法則は基本的にはあるもの」として書いてきましたけれど、

毎日少しでも多く笑って、ストレス少なく生活できること。

という、多くのものが手に入ったわけではないけれど満足度の比較的高い生活を手に入れる、ということであれば、特別仰々しく「引き寄せの法則」を実践する必要もないんじゃないかな、とも感じています。

自己肯定感が「回復」していくにつれ、マイナス面にばかり目を向ける癖もなおっていき、満足度も自然と上がっていくのだと思うので。

最後に私のケースでは、ですが、自分がこうなるに至った背景について、しんどかったんだね、と自分の当時の感情に真正面から向き合えるようになったのも、自己肯定感の回復に一役買ったのではないかと思います。

過去はどうしたって変えられないですし、蓋をしたままやり過ごせないので。

ただ、こと家族関係においてしんどさを感じるということは、自分の中でも、そして100%善意と思いやりで構成されているであろう「家族なんだから」「親なんだから」という言葉によっても、傷を広げる可能性に満ちてはいます。

でも、そのしんどさを外に発信する方、今は増えているんじゃないでしょうか。

そういう声に目を向けることで、過去に対するマイナス感情を増幅させすぎるのは良くないかもしれませんが、

「しんどいと感じたことは悪いことじゃないし、そう感じる自分は悪いってわけでもない」

と安心感を得られることが、自己肯定感の回復の第一歩にもなり得るんじゃないでしょうか。

自分の感情を、例えそれがマイナスのものであっても否定しないこと、も大事ですからね。
(他者に対して八つ当たりとかはしちゃダメですが)

というわけで、家を出る直前に読んで、そんなふうに「ホッとした」1冊を置いて、今日はこれで締めようと思います。

なお、本作についての著者のインタビューもあわせてどうぞ。

この記事を書いた人:藤代あかり(@akari_fujishiro)