書くということの今までとこれから

企画

書くということには、覚えるためと忘れるため、どちらの要素もあるんじゃないかと感じることがあります。

こう書くと、一見矛盾しているように思われるかもしれませんね。

私自身は特にそうした分野に関して専門的に学んだことがあるわけではないので、個人の体験から来る推測の域は出ませんが、

実際に書くという行為には、時には覚える、時には忘れる、という効果をもたらすことがあり、

そしておそらくはそれぞれの、覚えるためと忘れるために書く際に使われる脳だとかその辺りの領域が違うのではないかなぁと思っています。

今回はそれぞれの、覚えるためと忘れるための「書くということ」について、個人的に思うところを書いていきたいと思います。

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覚えるための、書くということ

身体で覚える、という表現もありますが、たとえば漢字や歴史の暗記など、私はよくノートや裏紙に書き出すことで覚えていました。

何十回、時には何百回も紙に書き出すことで、手がその字や単語を覚えてくれていたのです。

そういう勉強方法が自分の中で定着したのは、おそらく小学校高学年。

私は中学受験をした組で、当時はNのイニシャルが入ったバッグを背負った集団の中の1人だったわけですが、

8mm方眼に2mmの薄い方眼が入っている塾オリジナルのノートを出していまして、これがまた漢字練習帳にするのもちょうどよかったんですよね。

その8mm方眼のマス目を埋めていくゲーム!という感覚で、ひたすら漢字や単語などの書き取りして暗記していました。

今はもうそんなことできないだろうな(笑)

ちなみにその塾のオリジナルノート、算数などでグラフを書いたりするにも重宝する、すごく使い勝手の良いヤツだったので、

市販されていたら中高に上がってからも購入して使っていたんじゃないかな、と今振り返ると思います。

(少なくとも当時自分の周りでは同じような仕様のノートは見かけなかった)

そして今思うと当時のこの勉強方法は、何度転んでも起き上がり、やがて補助輪も支え手もなく乗れるようになっていった、自転車の乗り方を覚えるのに近いやり方だったのかもしれません。

だから今でも、特に漢字の読み書きに関しては比較的困ることが少ないような気がします。

歴史関係の単語などはあまり覚えられませんでしたけどね……

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忘れるための、書くということ

覚えるために書くのとは反対に、私の場合は忘れるために、忘れてもいいように書き出す、ということもままあります。

そうする理由は、自分が意識的に覚えていられる事象、に関する自分の記憶のメモリ容量がそう多くはない、と自覚しているからかもしれません。

たとえば、予定などはカレンダーに。今日しなければいけないことは、目に見えるメモや手帳などに。

自分が自分の頭で覚えていなければならない、というものの数を極力減らして

「ここを見れば必要なことが書いてある!」

というただ1点だけを覚えていればいいようにするのです。

そして、ここを見れば必要なことが書いてある、という場所を定期的に見にいくことを習慣づける。

すると、たとえば仕事などで「やり忘れた!」が減るんですよね。

特に同時進行しなければならないタスクが多くてあっぷあっぷな状態の時、ど忘れでさらにピンチに、ということがあったので、会社員時代は特にこれは徹底するようにしていましたね。

自分だけでは完結しないタスク、部署で共有しなければならない事項などは〆切などをGoogleカレンダーに登録して、

Google Apps Script(GAS)を使って毎朝その日の予定やタスクなどをメールで飛ばすという運用の基礎を作ったこともありました。

(元々VBAやSQLを業務上触る機会が当時は多かったので、ググりながら見様見真似で最低限の動作はできるように作ってみた次第)

あと、自分の心が悩みなどでマイナスな感情に溢れているな、という時にも、「書いて忘れる」ということを意識していたように思います。

これは悩みのポイントを書き出すことで思考を整理することができ、時には解決のヒントがひらめくこともあるという効果を狙って、という側面もありますが、

自分の外に書き出すことで、自分の中で「もう頭の中にそうした感情を残しておかなくていいんだよ」というスイッチが押されるようにできているからな気がしています。

いつからそんな風だったのかは、ハッキリとは覚えていないんですが。

自分個人の日記だったり友達との交換ノートだったり、そうしたところからスタートしたのかもしれません。

ちなみに、手で紙に書き出すか、スマホのメモにポチポチと打ち込んだりSNSやブログに書き出したりするかという、どの手段を取るかについては自分にとってあまり関係がないようです。

ただ、Twitter黎明期&スマホも出始めた頃合いだということと、

学生の頃と違って交換ノートを書いて渡せるような機会が就職とともに損なわれたことを思うと、

自分にとってはこのタイミングが「忘れるために書き出すこと」のアナログ媒体からデジタルへの変換期にあたるのかもしれないな、とふと思ったりもします。

そしてこのブログも、書き出し先のひとつという位置付けなんですよね。

自分の素直な感情を、不特定多数の人が見る場所にありのまま赤裸々に晒すのはどうしても気が引けてしまうという部分はあるので、普段の記事はそこまで、特にマイナスな感情はぶつけていないように思いますが、

Twitterで出会った「3000文字チャレンジ」という企画が、忘れるために書くということ、の手助けをしてくれていたんだな、と、そんなふうに感じています。

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これからの、書くということ

学生ではなくなってから年数が経過するにつれ、覚えるために書くということを必要とする機会はグンと減ったなと感じます。

今、学生の頃と同じボリュームで書取りによって何かを覚えようとしたら、きっと腱鞘炎になるだろうという気さえします。歳はとりたくないものです(笑)

反面、忘れるために書くということは、これからもずっと私にとっては必要なことなんじゃないかなと、そんなふうに思います。

それは、自分の心がマイナスな感情に過半を占められないよう守るため、という意味合いもありますが、

同時に、今日の楽しかった出来事や感動したことなども、人はいつか忘れてしまいかねないから、という部分もあると思っています。

自分の中の記憶に留めておこうとどんなに頑張っても、いつかは意識的に思い出せなくなってしまう日が来るなら、自分の外側に記録として残しておくことで、振り返って噛み締められる。

「ここを見れば過去の楽しい・嬉しいと感じた自分にまた出会える」

そんな場所があってもいいのではないかと思うのです。心の、記憶の、外付けHDDみたいな場所、という感じでしょうか。

その媒体は、人によっては日記や手帳といった紙ベースのものかもしれませんし、SNSやブログなどのデジタル、オンラインの場所かもしれません。

ここまでは紙媒体で自分だけが見えるように。ここからは、下手したら世界中の誰でも見られる場所に。そんな風に使い分けている人もいるかもしれませんね。

もちろん、時の流れに身を任せていつかは忘れていく、そのままにしておくことも自由です。

あなたには、いつかは忘れゆくままにしておきたくない記憶はありますか?

その記憶を忘れないために、書き残しておける場所はありますか?

なお、本記事は3000文字チャレンジ(@challenge_3000)という企画の参加記事となります。
というわけで、お題と企画のルールについてはこちらから↓

今回の「書くということ」というお題で定期出題は最後になるとのことです。寂しいですが今後は過去の参加できなかったお題に少しずつチャレンジしたいと思います。

この記事を書いた人:藤代あかり(@akari_fujishiro)